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    樋田センセの戯論を少し詳しく破折^^12

    樋田センセが、
    http://toyoda.tv/kangaerarenai.kaigen13.htm
    で、感謝の気持ちを書いてあるので、少し詳しく破折してあげるよ!(^O^)アハハ!!


    樋田センセ曰く
    誰も、文証を否定していない。
    当方の主張は、「文証のみだけで大聖人の仏法の深義全体を明確にはできない」と言っている。


    それなら、"文証も" 出せばいいじゃん。(^O^)アハハ!!
    詭弁はいけないよ。樋田センセ。(^O^)アハハ!!
    キミは、「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証をすでにネット上で提示してあるかのような捏造をして、その提示場所が答えられず、こともあろうに!
    質問者に「必死で検索しなさい」と言って逃げた。(^O^)アハハ!!

    <その証拠>

    樋田証拠
    樋田逃げた

    そして、今回も!(^O^)アハハ!!

    http://toyoda.tv/kangaerarenai2.htm

    において、
    「戒壇本尊と直結させてない本尊は御真筆であろうとも絶対に功徳が無い」三証を提示せよ!
    問題に言及しながら、それでも、文証を提示しなかったのだよ。
    文証があると言いながら出さない。文証を提示すべき場面でも出さない。
    これを「文証否定」と言うのだ!

    キミは、ほんとに御書が読めないようだね。

    御本仏日蓮大聖人曰く
    ■如来の金言経文を尋ぬ可し、証文無くんば何と云うとも法華誹謗の罪過を免れず此の事当家の肝心なり返す返す忘失する事勿れ■

    『御本仏』が「文証を尋ねなさい」と我々に御指南されています!
    私は、『御本仏』の仰せの通りにキミに文証を尋ねているのです!
    キミが本物の大聖人の信仰者ならば、文証を尋ねた私を賛嘆すべきです!

    ところが、キミは、私にどのような対応をしましたか?
    「全くの能無しの醜態を衆人に晒しているだけで、、貴公の孤独で執拗頑迷な境遇がいよいよ鮮明となり、惨めさが増すだけだ」
    と、悪口罵詈によって侮辱したのです。
    日蓮大聖人の信仰者が、日蓮大聖人の教えの通り、文証を求める実践をしたら、賛嘆するどころか侮辱するとは何事ですか!
    「三証揃った正しい宗教」「世界唯一の正統」と豪語する大石寺の信者に、個人信仰者が、最も大事な法華誹謗に関する文証を尋ねたら、賛嘆し喜んで文証の数々を提示するどころか、文証を提示せず「道理」に逃げ、
    文証を提示出来ない己を恥じるどころか、逆に貴重な質問者に対して「能無しの醜態」「孤独で執拗頑迷な境遇」と悪口罵詈して侮辱するとは、一体何ですか!!!


    樋田センセ曰く
    >A 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり
    木画二像の 「前」 に ただ 法華経を 置けば それは 円教としての三十二相を具足して 「円教の仏」 としての義は成り立つ。
    B 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。
    「法華経」 を 「生身の仏の心法」 と定めて(よりどころや従うべきものとしてきめて。制定して) 「木画二像それ自体」 に 印する(1  印(いん)や型を押す。 2  しるしを残す。跡をつける。 3  影や光を他の物の上に届かせる。 投げかける。) などすれば、「生身の仏」 となる。
    これこそが「草木である木画二像が成仏し、衆生を教化できる本尊となること」である。(これこそが 「開眼」 なのである)


    南無妙法蓮華経の実践者を侮辱して生きているから教学もこのように狂うのです!
    カンタンな事を複雑に考え、高度な事を考えて居るようで、実は、何にも分ってない!
    キミは、
    「円教の仏」は、本尊とならない仏で、
    「生身の仏」は、本尊の事だと思い込んでいる。イマダニだ!
    私が、半年前にも破折しているのに、イマダニ、そう思い込んでいる。
    キミは、「生身の仏と言うのは、久遠元初の大聖人の御命のこと」と、
    この記事
    http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/blog-entry-1160.html
    の動画の中で言っている。
    それを、私が提示した明らかな文証によって破折されているのが見えないらしい。(^O^)アハハ!!

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
    大間違い!
    生身の仏と法華経の行者である日蓮大聖人は、百千万億倍 "違う" のだ!
    ■末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候■
    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


    とね。
    それとも、この文証を覆す程の文証が提示出来るかね?(^O^)アハハ!!
    キミの「生身の仏は御本尊の事」と言う思い込みは間違いだ。
    その前提が間違いなのだから、次々と間違った判断解釈になるのだ。


    樋田センセ曰く
    ① の 「仏」 とはこれこそ 「生身の仏=草木成仏=本尊」 という義
    A の 「純円の仏」 とは 教相・脱益の教主である 「円教の仏」 という義であり、しかし 法華経をただ前に置いただけでは 「生身の仏」 にはなれないから、衆生教化できる「本尊」足り得ない。

    ほらね。(^O^)アハハ!!


    樋田センセ曰く
    ● 木画二像の前に 「経」 を 「置く」だけでは それが「法華経」であろうと、ただ置くだけでは 三十二相は具足するが、「生身の仏=衆生を教化する本尊」にはならない。

    ほらね。(^O^)アハハ!!

    木絵二像開眼の事に曰く
    ■木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり■

    この御文の「心」とは、何だと思う。
    「妙法蓮華経の五字」です。
    私は、キミのように文証による証明無き「元意」と言う名の『我見』で逃げたりはしない。
    ちゃんと文証が出せます。


    まず、木絵二像開眼の事に曰く
    ■色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり

    他の御書に曰く
    ■此珠とは南無妙法蓮華経なり(中略)此の珠は広く一切衆生の心法なり■
    妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部のなるのみ■
    ■今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なりなり■
    本心とは日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり■

    ゆえに、
    「木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但(妙法蓮華経の心ある法華経でなければ)三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに」
    と読むのです。
    だから、その御文に続いて、「前に置く教典によって木画の二像の境涯が次々に変わる事」が詳しく書かれているのです。

    ■木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず〜■

    どの教典を置くかが問題だからです。
    君達は、聖人御難事の拝読においても、大聖人が「出世の本懐」を明かされたんだと妄執するのみで、それではなぜ、「出世の本懐」を明かされた後に「出世の本懐」が何なのかを全く説明せず、受難に関する事だけが詳しく書かれているのかについて思考停止状態であり、ここでも、なぜ、大聖人が「前に置く教典によって木画の二像の境涯が変わる事を詳しく書いているのか」に関して、全く思考停止なのだ。
    それは、カンタンに言えば、
    法華経以外の教典でも「経」だから、三十一相で足りなかった「声」は備わる。
    しかし、法華経以外の教典では、「真実の仏の心」が無く「真実の仏の声」が備わらないから「開眼」にならないと言う訳だよ。


    樋田センセ曰く
    ● 木画二像それ自体に、「法華経を生身の仏の心法と定めて」、「印する」ことにより、初めて「生身の仏」となり「衆生を教化する本尊」と成り得るのである。 つまり、これを「開眼」というのである。
    因みに、この前提として、木画二像の前に「法華経」が置かれていることが一つ目の必須条件である。
    >はい、駄犬には最早チンプンカンプンだろうね。
    〜もっと知的レベルの高い人たちに向かって説明しているんだからね。


    いやいや、想定内だよ。(^O^)アハハ!!
    私は、キミがこのような論難をして来る事等、想像しながら書いていたのだよ。
    しかし、一度に回答すると頭がパンクする者も居るだろう。
    だから、あえて差し置いていたのだ。
    キミは、自分で提示している御文が全く読めてない。

    木絵二像開眼の事に曰く
    ■法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり■

    「法華経を心法とさだめて」とは、具体的には、
    「真実の仏の心」である妙法蓮華経の五字が書かれている「法華経」を前に置いてと言う事だよ。
    また、「法華経を揺るぎなく信じて」と言う意味だ。
    キミは、未だに「印すれば」も分ってないようだね。
    「五指を合わせる」合掌を言うのだよ。

    <文証>
    ■法華経には「為説実相印」と説いて合掌の印之有り■

    即ち、木絵二像の前に法華経を置き、信心合掌して題目を唱える事が木絵二像の開眼の儀式になるのだよ。
    そして、

    ■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり■

    は、開眼した木絵二像の安置の仕方を御指南されているのです。
    その<道理>を提示しよう。

    死者も「非情」だね。
    つまり、「草木」に当たる。
    死者を成仏させるために、御本尊の元、塔婆を立てる等して葬儀を行う。
    これが、木絵二像の場合は、開眼の儀式に当たるのです。
    葬儀の後は、お墓に入れて五輪塔に題目を刻み、塔婆を立てる等して供養するね。
    これが、木絵二像の場合は、法華経を前に置いて安置する事に当たるのです。
    キミは、『「純円の仏」は「生身の仏」ではない』と書いていますが、"ここ"では、同じです。

    <文証>
    ■本地久成の円仏は此の世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや■

    「此の世界」とは、娑婆世界です。現実のこの世です。
    ゆえに、「木絵二像開眼の事」において、「純円の仏」と「生身の仏」は同義です。

    A 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

    は、開眼された木絵二像の安置の仕方です。

    B 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

    は、木絵二像の開眼の儀式の方法です。

    以上!
    キミの「道理」(言い分)には、その言い分の正しさを証明する文証が無い。
    私の理路整然たる道理には、その正しさを証明する文証や現証があるのです!

    日蓮大聖人曰く
    ■経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり■

    私の道理は用いられ、キミの言い分は捨てられるのです!
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    [ 2014/08/12 07:30 ] 宗教 | TB(0) | CM(0)

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