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    樋田センセの破折なるものを試しに読んでみれば、やはり、爆笑!

    以下、樋田センセが誰にも破折されない自分の安全地帯サイトで、私になんの告知もせず、こっそり破折のマネをした文章です。
    (※破折に無理があり過ぎて、内容はないが長いぞー(^O^)アハハ!!)

    http://toyoda.tv/kan72.htmより

    では、こういうゴミも消毒していきますか。

    ================

    <2010年>

    樋田くん「生身の仏」=「(開眼後の)御本尊」とご講義。

    *考える人*に「生身の仏=御本尊でありません。 文証「末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべし」
    https://www.youtube.com/watch?v=FCUXJsgMzH8&feature=player_embedded#at=35
    と破折され反論不能で敗北!

    ==============

    ● 別に駄犬のようなゴミは相手にもする必要なし。と捨て置いてただけじゃんね。

    いざ少々本気で破折開始したら、直ぐにこの様、だもの。

    駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕

    これに対して、もう全く反論不能になっている駄犬のくせに、よく↑こんなことが言えるよね。

    ほんと、人格破綻のよき標本体だわ。



    では、ギタギタにしていきましょう。


    ● 「生身の仏」=「(開眼後の)御本尊」

    まさに、その通り。

    その論証は、

    【開眼供養を論証】

    ● 2014.8.20 純円の仏 ≠ 生身の仏  

    ● 2014.8.21 「開眼供養」の原理を 真言師の「開眼供養」の原理から逆論証する

    ● 2014.8.21 木絵二像の「開眼の義」を会通

    ● 2014.8.21 ■ 人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。

    ● 2014.8.21 「死骨成仏」 の原理を明かす

    ● 2014.8.21 小結 「木絵二像 を 本尊 と成すには 必ず 「開眼供養の義」 が必要」 と断ずる

    ● 2014.8.21 ■ 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

    ● 2021.8.21 ■ 「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。

    ● 2014.8.22 開眼論証 結論 駄犬「考える人」が拝む『 ネット販売の模造掛け軸 』には悪鬼・魔神が棲み込んでいる


    に論証してある。

    駄犬、一言半句も反論できていない。

    その上で、駄犬の的外れな引文の稚拙さと矛盾を突こう。



    駄犬の反論のために引いた文

    ▼文証  「末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべし」

    全く、見るだけで、こんなバカ相手にする時間が勿体ないと溜息がでるわ。。。。

    ■ かヽる仏なれば木像・画(え)像にうつし奉るに、優填(うでん)大王の木像は歩みをなし、摩騰(まとう)の画像は一切経を説き給ふ。是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔にあて、頭(こうべ)を低(た)れて他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ飢ゑて食を思ふがごとく、間(ひま)無く供養し奉る功徳よりも、戯論(けろん)に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも

    末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間  「生身の仏」  を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。

    これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。十号と申すは仏の十の御名(みな)なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかヽれたり。(法蓮抄 建治元年四月 五四歳 813)

    実にバカだ~~。

    その同じ「法蓮抄」に

    ■ 今の法華経の文字は皆 「生身の仏」 なり。(819)

    法華経の文字は 本尊 ではないのか?

    駄犬がかつて引文した御書だろ~?

    ■ 問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の諸行は何にてか候べき。
    答へて云はく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて  「本尊」  と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。

    と在るではないか。

    生身の仏 = 本尊   はい、終わり。  はい、首がまた落ちましたね。 



    「生身の仏」 とは、 生きた身の仏 今まさに生きておられ、衆生を教化し、即身成仏へ導かれる仏 という意味。

    その「仏」と一言で言われる中に、幾種類もの「仏」がいる。

    再掲

    ●「一口に「仏」といっても  劣応身 勝応身 迹門の仏 本門の仏 文底下種の仏  ざっと言ってもこういう縦分けがあることを駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」が知らないか理解できるだけの能力が欠落しているだけのこと。

    実に法門未熟である。」

    そのそれぞれの「仏」が、生きて法を説かれる姿を「生身の仏」というのである。

    そして、その現実の肉体を持った「仏」が入滅した後、そこに「本尊」の必要性が出てくるのではないか。
    その「本尊」も、生きて衆生を導き、化導する「仏」でなければ「本尊」足り得ない。

    が故に、衆生を化導しうる「本尊」をまた「生身の仏」と表するのである。

    駄犬は、その「仏」の種類も分らず、また、現実の肉体を待たない「本尊」としての「仏」も、何もかも分別がつかず、ごちゃ混ぜにし、いっしょくたにしか考えられないから、このように大恥をかくのである。

    で、駄犬が引用した御文

    ■  末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間  「生身の仏」  を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。

    での 「生身の仏」 は、「熟脱の釈尊」 もしくは、
     釈尊滅後に造立された、熟脱仏法におけるところの「釈尊像としての本尊」、
    このいずれかの意味である。

    その熟脱の教主釈尊、もしくは、本尊としての釈尊像 が、 末法の下種仏法の教主、日蓮大聖人に劣ることなど当たり前のことではないか。



    木絵二像開眼の事 における「生身の仏」とは、 「仏」が、実際に生きて法を説かれる姿としての「生身の仏」という意味と、
    その現実の肉体を持った「仏」が入滅した後に、生きて衆生を導き、化導する「仏」としての「本尊」を「生身の仏」と呼ぶ、その両方の意義なのである。

    「生身の仏」 の高低浅深を論じているのではない。



    大聖人御自身が、現実に生きて衆生を即身成仏へと導く「生身の仏」ではないか。

    ■ 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり (御義口伝 1773)

    その大聖人はそのまま「本尊」と仰せである。

    ということは

    生身の仏 = 本尊  ではないか。

    その大聖人滅後、大聖人として生きて衆生を化導して即身成仏へ導くのは何なのか?
    それが十界曼荼羅本尊である。

    ただし、草木で造立した曼荼羅本尊は、そのままでは本仏の魂魄が入っていないから、「法華を悟る智者」が「開眼供養」しなければ生きた仏、つまり「生身の仏」とならない。という原理である。

    駄犬もまぁ、絶対無理かとは思うが、少しは、論理的に筋道立てて、自説を論証できないか?

    ・・・・どう考えてもやっぱ無理か・・・呵々大笑。

    「生身の 仏」が分らぬ 実験体



    以上が、樋田センセの破折のフリです。
    さて、樋田センセが書いた文書のどこが論理破綻しているか、普通の知性があれば、すぐ判りますよね。
    (^O^)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \!!
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    [ 2015/01/31 01:00 ] 宗教 | TB(0) | CM(0)

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